探検発見 : 宇宙航空研究開発機構 内之浦宇宙空間観測所

所在地 : 鹿児島県肝属郡肝付町南方 1791-13 (→Mapion)
訪問日 : 2004-09-12, 2005-02-11, 2006-09-23
URL : http://www.jaxa.jp/about/centers/usc/index_j.html


1955 (昭和 30) 年 4 月、東京・国分寺の廃工場跡地で産声を上げた国産ロケット「ペンシル」は、同年 8 月 6 日、秋田県は道川海岸で初めて上空への打ち上げに成功しました。全長 300mm、飛行高度わずか 600m の小さなロケットが、大宇宙への飛翔の第一歩となりました。
その開発の中心は、糸川英夫教授率いる東京大学生産技術研究所 AVSA 研究班でした。戦後日本の宇宙開発は、国家機関の手ではなく、(国立とはいえ) 一大学組織からスタートしたのです。

道川の秋田ロケット実験場において 1956 (昭和 31) 年から発射実験の始まったカッパ (K) ロケットは、コンポジット推薬の実用化など改良を重ねて飛行高度を上げ、1960 (昭和 35) 年、K-8 型が高度 200km を超えるまでになりました。
このまま飛行高度が上がると、いずれ日本海を飛び越えて大陸にまで到達してしまうのは時間の問題です。たとえ非軍事目的の研究観測用ロケットといえども、朝鮮半島や中国・ソ連に「着弾」する事態は避けねばなりません。
太平洋側に新たな射場を求め、糸川教授の全国行脚が始まりました。

1960 年 10 月 24 日、糸川英夫は鹿児島県内之浦町 (現・肝付町) を訪れました。
鹿屋でタクシーを手配し、内之浦へ行きたいと告げると、運転手は道が悪いからと渋ります。すると糸川は、プロの運転手を助手席に座らせ自らハンドルを握って出発しました。
「東大の偉い先生」が後部座席にふんぞり返ってやって来るものと思っていた内之浦の人々は、糸川自ら運転するタクシーをそれと気付かずうっかり見過ごしてしまいました。

苦労の末 (?) に辿り着いた内之浦でしたが、案の定と言うか、海岸線まで山が迫り起伏の多い地形はロケット射場に向いているようには思えません。諦めかけていたなか、ふと尿意をもよおした糸川は、長坪地区の峠道に車を止めて立ち小便をしました。そのとき、海に向かって描く軌跡を眺めていた糸川の脳裏に何かが閃きました。ここだ!
冗談のような本当の話、一人の天才のお世辞にも上品とは言えない行動がきっかけとなって、日本で 2 番目のロケット射場の立地は決まりました。山を削り、発生した土砂で谷を埋め立てて平地と道路を造成しよう。高低差を利用して管制所やレーダーサイトを設ければいい。糸川教授お得意の「逆転の発想」です。
ひとたび決断した後の糸川の行動は素早く、内之浦町長はじめ地元有力者への協力要請、長坪地区住民や地元婦人会への説明、そして漁業関係者への説明と、矢継ぎ早に各方面への根回しを進め、1962 (昭和 37) 年 2 月 2 日に起工、翌 1963 (昭和 38) 年 12 月 9 日、「東京大学鹿児島宇宙空間観測所」が開所しました。
こうして、タクシーも行きたがらない「陸の孤島」は、「宇宙にいちばん近い町」へと生まれ変わることとなりました。

内之浦からのロケット打ち上げは、1962 年 5 月 24 日に起きた K-8 型 10 号機の爆発事故により秋田実験場が使用できなくなったこともあり、正式な開所を待たず同年 8 月から開始されました。
そして、飛行高度の制約の無くなった内之浦からの打ち上げを前提に計画された、高度 1,000km の内側バン・アレン帯の観測を目指すラムダ (L) ロケット、高度 10,000km 以上の外側バン・アレン帯を狙うミュー (M) ロケットの開発が始まりました。
理論上は、ミューの性能ならば人工衛星の打ち上げも可能です。衛星というプラットフォームが手に入れば、宇宙空間でより多様な観測が可能となります。人工衛星打ち上げは、日本の宇宙科学者の、そしてもちろんロケット技術者の新たな目標となりました。
なお、1964 (昭和 39) 年 4 月、東大生研 AVSA 研究班は東大航空研究所と統合され「宇宙航空研究所」へと改組されました。

当初、ミューで行う予定だった人工衛星打ち上げでしたが、3 段式の L-3 型に球形の第 4 段を付加し、弾道軌道の頂部で水平方向に点火させると衛星軌道に投入できることが判明したため、ミューの完成を待たずラムダで先行して衛星打ち上げ技術を習得しようという機運が高まり、L-3 型を改良した L-3H、そして L-3H に球形モーターを追加した L-4S が開発されました。

1966 (昭和 41) 年 9 月から始まった L-4S による衛星軌道への挑戦は、分離のトラブルや上段の不点火等により 3 度連続で失敗、そして科学技術庁による種子島宇宙センター建設に関わる漁業補償交渉のもつれのとばっちりを受け、内之浦でも 1 年 5 ヶ月にわたりロケット打ち上げが中断されるなど、数々の苦難を味わい続けました。
「日の丸衛星」失敗の批判は、一部マスコミによる糸川英夫への個人攻撃へと繋がり、1967 (昭和 42) 年春、糸川は東大を去りました。
打ち上げ再開後の L-4S 4 号機も、分離した第 3 段が残留推力により上段に追突して姿勢を狂わせ、失敗に終わりました。もはや 5 度目の失敗の後はありません。内之浦では、衛星打ち上げ成功を祈願して神社にお参りする町民の姿が大勢見られました。

1970 (昭和 45) 年 2 月 11 日、内之浦の天候は快晴。13 時 25 分、L-4S 5 号機は紅蓮の炎と白煙の軌跡を残して青空の中へと飛び立ちました。打ち上げ 5 分 03 秒後、第 4 段点火コマンド送信。その 100 秒後に点火された第 4 段は、ついに近地点高度 337km、遠地点高度 5,151km、軌道傾斜角 31.1 度の長楕円軌道への投入に成功、ここに日本初の人工衛星が誕生し、日本はソ米仏に続く世界で 4 番目の人工衛星打ち上げ国となりました。
国際標識番号 1970-011A、直径 48cm の球形ロケットモーターにビーコンとテレメータの送信装置を付加した 23.8kg の人工飛翔体は、打ち上げの地・大隅半島にちなんで「おおすみ」と命名されました。
糸川英夫はその日、東大退官後に始めた組織工学研究所の仕事で中東の砂漠にいました。カーラジオで日本の人工衛星成功のニュースを聞いた糸川は、即座に軌道を計算しました。「おおすみ」はちょうどそのとき、異国の地にいる「日本のロケット開発の父」の頭上を通過しているところだったと言われています。
内部温度の上昇により搭載バッテリーの劣化が進み、打ち上げ後 15 時間で電波送信を停止してしまいましたが、衛星自体は多くの予想をはるかに越えて飛び続け、33 年後の 2003 (平成 15) 年 8 月 2 日、「おおすみ」は北アフリカ上空で大気圏に再突入し消滅しました。


L-4S-5 (Copyright (c) JAXA)全長 16.5m、直径 0.735m、打ち上げ時総重量 9.4t という小さな機体で衛星軌道に挑んだ L-4S 5 号機。
「おおすみ」成功と同時に、L-4S は世界最小の人工衛星打ち上げロケットとなった。
提供 : 宇宙航空研究開発機構 (JAXA)
Copyright (c) JAXA


「おおすみ」の成功は決してゴールではなくまだほんの一歩であり、これからミューロケットによる科学衛星の時代が幕を開けることとなります。
科学衛星打ち上げ用の M-4S は初号機こそ失敗したものの、2 号機以降は試験衛星「たんせい」科学衛星「しんせい」「でんぱ」と 3 機連続で打ち上げに成功。またそれまで無誘導であったミューは M-3C で初めて誘導制御に乗り出し、M-3H、M-3S と進化を続けます。
科学衛星による研究観測においても、1979 (昭和 54) 年 2 月に打ち上げられた X 線観測衛星「はくちょう」の成功により、世界の最前線へと躍り出ることとなりました。

1981 (昭和 56) 年、東大宇宙研は大学共同利用機関として東大から独立し、文部省宇宙科学研究所 (ISAS : Institute of Space and Astronautical Science) が発足しました。
ISAS 発足後の最初の大プロジェクトは、1986 (昭和 61) 年に地球に接近するハレー彗星探査ミッションです。1985 (昭和 60) 年、M-3S の改良型 M-3SII ロケットによって打ち上げられたハレー彗星探査機「さきがけ」「すいせい」により、日本の宇宙科学はついに惑星間空間へと進出しました。
1997 (平成 9) 年からは、全段固体燃料ロケットとしては世界最大級の M-V ロケットの運用を開始、電波天文衛星「はるか」火星探査機「のぞみ」小惑星探査機「はやぶさ」を宇宙へ放ちました。

2003 (平成 15) 年 10 月、宇宙科学研究所は宇宙開発事業団 (NASDA)・航空宇宙技術研究所 (NAL) とともに独立行政法人「宇宙航空研究開発機構 (JAXA : Japan Aerospace Exploration Agency)」へと統合されました。ISAS は以前の組織をほぼ継承して JAXA 宇宙科学研究本部 (本部の英語名称も ISAS を継承) となりましたが、内之浦の射場は宇宙基幹システム本部へと所属が変わっています。
JAXA 発足直後は「のぞみ」の火星周回軌道投入断念といった芳しくない話題があったものの、2005 (平成 17) 年 7 月 10 日、奇しくもペンシルロケット 50 周年の年に、M-V 6 号機により「はくちょう」以来の日本のお家芸である X 線観測衛星「すざく」の打ち上げに成功したことは記憶に新しいところです。

ところで、鹿児島宇宙空間観測所の英語名称は Kagoshima Space Center、略して KSC と呼ばれていました。一方、アメリカ・フロリダ州ケープカナベラルにある NASA のロケット射場が「ケネディ宇宙センター (Kennedy Space Center)」と NASA によって公式に命名されたのは 1963 年 12 月 20 日のこと。KSC の名称を使い始めたのは、実は内之浦の方がわずかに早かったのです。さしずめ、内之浦は「元祖 KSC」ケネディは「本家 KSC」といったところでしょうか。
残念ながら (?) JAXA 統合時に「内之浦宇宙空間観測所 (USC : Uchinoura Space Center)」と改称されたため、「KSC? それはオリジナルの KSC (内之浦) のことか、それとも第二 KSC (ケネディ) か?」という ISAS 関係者のジョークも今となっては過去の話となってしまいましたが、宇宙科学分野では NASA に負けるとも劣らない「世界の KSC」であったことは事実です。

2005 (平成 17) 年 7 月、内之浦町は高山町と合併して肝付町となり、地名としての内之浦は消滅、小中学校やロケット射場等にその名を残すのみとなりましたが、初の国産人工衛星打ち上げの地、そして日本の宇宙探査の最前線として、「世界に名だたる内之浦」は永久に不滅です。

内之浦への公共交通機関の便はお世辞にも良いとは言えないので、レンタカーの利用をお勧めします。鹿児島空港からは、途中休憩なしで直行すれば 2 時間で辿り着きます。国見トンネルが開通したので、高山からのアプローチも改善されました。
内之浦の中心部から南へ車で約 10 分、国道 448 号線の上り坂を上りきった美濃峠のピークに、宇宙空間観測所のゲートがあります。手続きをした後、そのまま車で所内を観て回ることとなります。
所内は起伏が多く、各施設も分散して配置されているので、車でないと (車でも?) かなり大変な見学ですが、世界的にもユニークな宇宙基地の姿は非常に面白く、苦労してでも行ってみる価値はあります。そして一度行けば、次はロケットの打ち上げを直に見てみたいと思うこと請け合いです。

現地での宿泊は、温泉もある国民宿舎「コスモピア内之浦」がお勧めですが、ロケット発射実験の際には関係者で満室となることも多いそうなので、その場合は鹿屋あたりで宿を探すべし。

残念ながら、M-V ロケットは 2006 (平成 18) 年 9 月 23 日に打ち上げられた 7 号機を最後に運用を終了しました。JAXA では 2007 年度から、2010 年運用開始を目途に小型衛星向けの新型ロケットの開発に着手することとなっており、USC ではそれまでの間、年に数回実験・観測用ロケットの打ち上げを続ける予定です。


JAXA 内之浦宇宙空間観測所ゲートを入り少し坂を登った先にある「おおすみ」記念碑。USC 訪問の際には、必ずこれに参拝すること。さもないと「日本のロケットの神様」の罰が当たります (嘘)。
(2005-02-11)

JAXA 内之浦宇宙空間観測所記念碑から右折した先の KS センター。開所当時、カッパおよびラムダの射場として整備されたところで、L-4S-5 もここから打ち上げられた。現在は S-520 等の観測ロケット射場として使われている。
ランチャーは天蓋で覆われており、発射時は天井と側扉を開いてそのまま打ち上げられる。
(2005-02-11)

JAXA 内之浦宇宙空間観測所KS センターに展示されている、M-3S ロケットの実物大模型。
背後は、コントロールセンターおよびテレメータセンター。衛星追跡用の 2 基のアンテナが目立つ。
(2005-02-11)

JAXA 内之浦宇宙空間観測所テレメータセンターを 20m アンテナ付近から俯瞰する。
そびえ立つパラボラアンテナは、所内最大の 34m。臼田宇宙空間観測所の深宇宙探査用 64m アンテナをバックアップするサイズを有しつつ、周回衛星追尾のために、仰角方向に毎秒 2.5 度、方位角方向に毎秒 5 度 (180 度旋回するのにわずか 36 秒!) という、巨大アンテナにあるまじき「ものすごい速さ」で動くという。
(2005-02-11)

JAXA 内之浦宇宙空間観測所所内最高所に立つ衛星追跡用 20m アンテナ。正面向きに固定された小型アンテナは、新宮原のレーダーサイトとの中継用。
(2005-02-11)

JAXA 内之浦宇宙空間観測所所内最奥地点にある 10m アンテナ。サイズや形状からしてロケットテレメータ用かと思われる。
(2005-02-11)

JAXA 内之浦宇宙空間観測所ミューロケット射場である M センターの全景。右側の建物がロケット組立室、左側に立つのが整備塔。
(2005-02-11)

JAXA 内之浦宇宙空間観測所ミューロケット整備塔。この内部で M-V ロケット各段および衛星フェアリングが垂直に組み上げられ、打ち上げ時は側扉を開いてランチャーが旋回しながら現れ、発射姿勢をとる。
写真は、M-V 7 号機打ち上げ直後の撮影。上下角 82 度にセットされたランチャーに注目。
(2006-09-23)

JAXA 内之浦宇宙空間観測所ミューロケット整備塔をランチャー側から望む。ランチャーを収容するために側扉が開放されているため、整備塔内部まで見ることができる (打ち上げ時には側扉は閉じられる)。打ち上げ直後か一般公開イベントでないとなかなか見られない光景。
ランチャー下部のディフレクタに残る、噴射炎の跡にも注目されたし。
(2006-09-23)

JAXA 内之浦宇宙空間観測所M センターに展示されている M-V ロケット地上試験機。M-V 開発時に地上設備との整合性確認のために実物と同じ寸法・構造・重量で作られたものが、そのまま屋外展示されている。
(2006-09-23)

JAXA 内之浦宇宙空間観測所ゲート横にある展示施設・宇宙科学資料センター。ここは手続き不要で見学できる。
橋に接する上部から入り、螺旋状に下りながら見る順路となっている。
(2005-02-11)

M-V-7 2006 年 9 月 23 日 6:36、M-V ロケットの最終フライトとなる 7 号機の発射シーン。多くのギャラリーに見送られ飛び立った M-V-7 は 8 分 30 秒後にペイロードを無事分離し打ち上げは成功、有終の美を飾った。
本機により打ち上げられた、「ひのとり」「ようこう」に続く日本で 3 番目の太陽観測衛星 SOLAR-B は、打ち上げ後「ひので」と命名された。
(2006-09-23)

参考文献

日本の宇宙開発の歴史
宇宙航空研究開発機構 宇宙科学研究本部 , <http://www.isas.jaxa.jp/j/japan_s_history/index.shtml>
新版 日本ロケット物語
大澤弘之 監修, 誠文堂新光社, 2003, ISBN4-416-20305-5
宇宙にいちばん近い町 内之浦のロケット発射場
的川泰宣, 春苑堂出版, 1994, ISBN4-915093-23-9
宇宙へのパスポート2 M-V&H-IIAロケット取材日記
笹本祐一, 朝日ソノラマ, 2003, ISBN4-257-03678-8

本稿作成にあたり、当時の画像資料として「独立行政法人 宇宙航空研究開発機構 (JAXA)」Web サイトの画像をガイドラインに基づき利用させて頂きました。「提供 : 宇宙航空研究開発機構 (JAXA)」と出典を明記した画像の著作権は全て宇宙航空研究開発機構に帰属します。当該画像の複製・転載その他の二次使用は御遠慮ください。