探検発見 : 洞爺丸台風海難者慰霊碑

所在地 : 北海道北斗市七重浜 7 丁目 (→Mapion)
訪問日 : 2004-03-07 ほか数回

注) 本文中に記したとおり、正しくは「台風海難者慰霊之碑」ですが、一般に「洞爺丸慰霊碑」と呼ばれることと、洞爺丸の名を明確にする意図をふまえて、標記の見出しとしました。


北の大地・北海道への交通手段は今でこそ「飛行機でひとっ飛び」が主流ですが、かつては航路が唯一の手段であり、その主役は、青森と函館を結び東北本線と函館本線に接続する国鉄青函連絡船でした。

1988 (昭和 63) 年 3 月 13 日、青函トンネル開通により 80 年の歴史に幕を下ろした青函連絡船ですが、青函トンネル建設のきっかけ、ある意味では航路自体の廃止の遠因となったとも言えるのが、1954 (昭和 29) 年の洞爺丸遭難事故です。


1954 年 9 月 26 日、折からの台風 15 号は日本海上を猛烈なスピードで北東に進んでおり、夕方には奥羽地方北部から三陸沖へ抜けるとの予報が出ていました。津軽海峡は暴風域に入るとしても可航半円 (台風の右半円では風向と進行方向とが合わさって強い風となり、左半円では風向が進行方向と逆になり風が弱まる。前者を「危険半円」後者を「可航半円」と呼ぶ) であると考えられました。

その日の午後、国鉄函館駅第一岸壁では連絡船 4 便「洞爺丸」 (建造時 3,898 総トン、当時 4,337 総トン) が出港準備を進めていました。
戦時中の空襲によって壊滅状態となった青函航路の輸送力確保のために建造された戦後初の大型船で、その年の 8 月には天皇皇后両陛下の御召船の大役を務めた、当時最新鋭の客貨船です。

洞爺丸船長は、台風の位置と進路、自船の耐荒天性能を秤にかけたうえで航行可能と判断し、14 時 40 分に定時出港する予定でした。台風が接近している状況ゆえ、少しでも早く津軽海峡を抜けて陸奥湾内に避難したいところでしたが、函館に引き返してきた他船からの乗客や貨車の移乗に時間がかかって出港が遅れたうえに、いざ出港の段になって、貨車の積み込みのために架けられた可動橋が停電のために上げられず出港の見通しがたたなくなったため「テケミ」(天候警戒出港見合わせ) を決定します。
このときの停電は 2 分間で、程なくして可動橋は上げられましたが、テケミの取り消しはされませんでした。歴史に if は禁物ですが、もしこのとき出港していれば、難航はしただろうが洞爺丸は間違いなく無事に青森に着いていたであろうと言われています。わずか 2 分間の停電が、洞爺丸の運命を変えました。

夕方、それまでの風雨が嘘のように急速に弱まり、西の空に晴れ間が姿を見せました。
「台風の目だ」洞爺丸船長も函館気象台も、誰もがそう確信しました。嵐はもうじき去る。船長は出港を決断します。
定時運行を命とする連絡船の船長として、運行を再開して一刻も早く通常のダイヤに戻さねばという意識も働いたのかも知れません。この後多少の吹き返しはあるだろうが、最新鋭の洞爺丸に乗り切れないものではない、と。

しかし、誰もが台風の目と信じて疑わなかった青空は、急速に速度を落とした台風に先行する形で通過した閉塞前線の創り出した「偽りの青空」でした。台風はそのとき大方の予想に反して北海道西方の日本海上にあり、函館港外が正にこれから地獄の海と化そうとしていたことを、誰も知りませんでした。

18 時 39 分、洞爺丸は 1,167 名の乗客を乗せて 4 時間遅れで函館を出港。しかし 19 時過ぎ、函館港防波堤を出た直後に猛烈な風と波に襲われ、航行を断念し投錨するも、錨が十分に効かず七重浜 (ななえはま) の海岸へとズルズルと流され始めます。更には船尾の車両甲板開口部から浸入した海水により機関室が浸水、石炭焚きボイラーは焚火不能に陥ります。
動力を失い錨も効かないとあっては、船を砂浜に座礁させて嵐をやり過ごす他に助かる手段は残されていませんでした。

22 時 26 分、海岸を右舷に見つつ海岸にほぼ並行する向きで座礁。船底が海底に届いたのだから、これ以上沈むことはない。重大な海難事故 (1,000 名を超える乗客を乗せての座礁は、立派な「遭難」にあたる) には違いないが、これで最悪の事態は去ったものと思われました。

しかし運命はどこまでも残酷でした。座礁してもなお、船は傾斜を増していったのです。

座礁地点は、海図上では水深 12.4m でした。喫水 4.9m の洞爺丸が座礁することは通常では考えられませんが、このときは猛烈な波に掻き回された海底の砂が移動し、堆積して浅瀬を作っていました (漂砂現象という)。荒波に揉まれるうちに右舷船底のビルジキールが漂砂に突き刺さり、安定した座礁状態を得る前に更なる波を受け続けたためにこれを支点として右舷側へ横転、更に海岸へと押し流されていったと考えられます。

22 時 39 分、もはや命運尽きた洞爺丸は SOS を発信します。
「SOS、こちら洞爺丸。函館港外、青灯より 267 度 8 ケーブル (1,500m) の地点に座礁せり」
しかし遭難信号を受信した僚船も国鉄青函局も、よもや 4,000 トンもの船が座礁後更に転覆するなどとは夢にも思いませんでした。他の船も自船の保持に精一杯で、とても救助に向かえる状況ではありませんでした。
函館海上保安部から「詳細知らせ」の無線が送られるも、陸上からの呼びかけに洞爺丸が応答を返してくることは永久にありませんでした。
傾斜を繋ぎ止めていた左舷錨鎖が切れ、車両甲板の積載車両が横転する轟音と共に急速に傾斜を増した洞爺丸は 22 時 43 分、4 本の煙突を海底に突き刺すように 135 度にまで転覆沈没、終に動かなくなりました。七重浜沖わずか 600m の地点でした。
混乱のなかで脱出できず船内に閉じ込められる者、荒れ狂う海に呑み込まれ波間に消える者……海岸を目前にして、9 割もの乗客が帰らぬ人となりました。

後に洞爺丸台風と呼ばれることとなる台風 15 号は、一夜にして洞爺丸・第十一青函丸・北見丸・日高丸・十勝丸の計 5 隻の連絡船を海の藻屑へと葬り去りました。死者・行方不明者は、洞爺丸のみで乗員乗客合わせて 1,155 名、5 隻合計では 1,430 名。1912 年の英国豪華客船「タイタニック号」沈没に次ぐ世界第二 (当時) の、平時の日本における最悪の海難事故となりました。

誰もが沈むと思わなかった連絡船洞爺丸は、事故から 1 年近く経った 1955 (昭和 30) 年 8 月、ようやく七重浜の海底から引き揚げられました。
船橋や一等船室といった上部構造物は完全に失われ、無惨に変わり果てたかつての「海峡の女王」はもはや再起不能で、そのままスクラップ処分されました。


台風海難者慰霊之碑洞爺丸遭難事故の翌年に七重浜に建立された「台風海難者慰霊之碑」。
半世紀前、背後の海は地獄と化した。
碑自体は小公園として整備されているが、周辺は大型ショッピングセンターや温泉リゾート等が建ち並び、事故当時を偲ぶものは無い。
(2004-03-07)


洞爺丸遭難から半世紀が経過し、事故の記憶も (下手をすると、連絡船自体の記憶も) 風化しつつあるのではないかと思われますが、かつてタイタニックに匹敵する悲劇が日本の海で起きたこと、悲劇を繰り返すまいという関係者の血の滲む努力が今日の船旅の安全を築き上げてきたことを忘れて欲しくはありません。函館を訪れる機会があれば、一度は慰霊碑へ足を運んでみて欲しいところです。

JR 江差線七重浜駅から国道 227 号線に出たところを右折、上磯方面へ 20 分程歩いた道路海側に慰霊碑が建てられています。
函館市内から上磯方面行バスを利用する場合は、その名も「慰霊碑前」バス停で下車となります。
北海道への格安な移動手段 & 宿代わりとして東日本フェリー深夜便を利用する方もいるかと思いますが、函館港フェリーターミナルから七重浜駅に移動するついでに慰霊碑に立ち寄るというのも良いでしょう。


青函連絡船海難者慰霊碑おまけ : 函館護国神社の近く、函館山登山道口付近にある「青函連絡船海難者慰霊碑」。
もとは戦時中に殉職した職員の霊を慰めるために 1953 (昭和 28) 年に建立されたものだが、洞爺丸台風での殉職者も後に合祀されている。
(2004-03-07)

参考文献

鉄道連絡船 100 年の航跡 (二訂版)
古川達郎, 成山堂書店, 2001, ISBN4-425-92141-0
洞爺丸はなぜ沈んだか
上前淳一郎, 文藝春秋, 1980 (文春文庫 : 1983), ISBN4-16-724804-2 (文春文庫)
青函連絡船ものがたり
坂本幸四郎, 朝日新聞社 朝日文庫, 1987, ISBN4-02-260476-X
青函連絡船 洞爺丸転覆の謎
田中正吾, 成山堂書店, 1998, ISBN4-425-77102-8
鉄道連絡船のいた 20 世紀
イカロス出版, 2003, ISBN4-87149-484-5