探検発見 : 電気興業 依佐美送信所跡

所在地 : 愛知県刈谷市
訪問日 : 2005-02-19, 2005-03-19, 2006-04-08
URL : http://www.denkikogyo.co.jp/profile/co0212.html


筆者は残念ながら記憶していないのですが、かつて東海道本線刈谷駅付近 (東海道新幹線では三河安城駅付近) の車窓から、高さ 250m もの紅白の鉄塔が 8 本立ち並ぶ光景を目にすることができました。
戦前からこの地のランドマークとして知られた「依佐美 (よさみ) 送信所」の無線塔です。

明治維新以来、日本の対外通信手段は、欧米の電信会社の所有する海底電線に頼ってきました。
1914 (大正 3) 年に第一次世界大戦が勃発すると、この唯一の通信手段も日本が自由に使用することが困難となり、外交上・通商上から独自の対外通信施設の必要性が痛感されることとなりました。第一次大戦の戦後処理等で財政の逼迫していた政府は、民間の資金を導入することとし、1925 (大正 14) 年、半官半民の国策会社「日本無線電信株式会社」が設立されました (1938 (昭和 13) 年に国際電話株式会社と合併し「国際電気通信株式会社」となる)。

当時、遠距離の無線通信には長波の大出力送信が不可欠と考えられ、送信機もアンテナも大規模なものが必要とされました。
1927 (昭和 2) 年 7 月、愛知県碧海郡依佐美村 (現・刈谷市) 高須において対欧無線電信所の建設工事が着工されました。依佐美に建設されるのは送信施設で、対となる受信施設は三重県三重郡海蔵村 (現・四日市市) に建設されることとなりました。
建設資材の輸送にあたっては、三河鉄道 (現・名鉄三河線) 小垣江駅から 2.4km の臨時専用線が敷設され、同年 7 月 11 日に運輸開始が認可されました。専用鉄道による資材輸送は同年 9 月 30 日をもって終了、軌道は直ちに撤去されています。

依佐美送信所は 1929 (昭和 4) 年に完成、ロンドン (イギリス)・ベルリン (ドイツ)・パリ (フランス)・ワルシャワ (ポーランド)・ジュネーブ (スイス) との通信を開始しました。
しかしこの頃には、短波通信が電離層反射により比較的小電力でも遠距離通信に有効であることが明らかとなったため、対外通信としては短波が普及することとなり、長波通信は短波の補完や特殊な通信手段としての利用が主となっていきました。依佐美送信所も、長波だけでなく短波送信施設が後に増強されることとなります。
一方、水中へも伝播する長波の特質に着目した帝國海軍は、依佐美の長波送信施設を潜水艦への通信に使用するようになり、1941 (昭和 16) 年、依佐美送信所は海軍の管轄下に置かれました。

1941 年 12 月 8 日 (日本時間)、南雲忠一海軍中将率いる空母「赤城」を旗艦とする機動部隊の艦載機が、ハワイ・オアフ島の真珠湾に停泊する米海軍太平洋艦隊を奇襲、太平洋戦争の火蓋が切って落とされることとなりました。
開戦日を指示する「ニイタカヤマノボレ一二○八」の暗号電文は有名ですが、依佐美送信所はこの電文を海軍東京通信隊の管制のもと、南雲機動部隊とは別行動の先遣部隊の潜水艦に向けて 17.44kHz で送信しました (南雲部隊へ向けての送信を行ったのは、千葉県船橋市行田の船橋送信所)。

第二次大戦後、国際電気通信株式会社は解散、依佐美送信所も閉鎖されました。1950 (昭和 25) 年、国際電気通信 (株) の第二会社として「電気興業株式会社」が設立、依佐美送信所の施設を引き継ぎました。
同年、GHQ 指令により米海軍が送信所を接収、潜水艦隊への通信に使用することとなり、電気興業により 2 年掛りでアンテナや送信機を改修した後、1952 (昭和 27) 年 7 月から再び電波送信が開始されました。

ある意味、激動の昭和と共に歩み続けてきた依佐美送信所ですが、東西冷戦の終結等、国際情勢の変容を受け、1993 (平成 5) 年に送信を停止、翌 1994 (平成 6) 年 8 月に全面返還されました。8 基の無線塔は、2 号鉄塔が 25m に短縮のうえ保存されることとなった他は撤去とされ、1997 (平成 9) 年 3 月に全ての撤去が完了しました。
そして 2006 (平成 18) 年 4 月、送信所の局舎も遂に解体撤去され、往時のままのものは完全に姿を消しました。
送信所内には、1928 年製造のドイツ・テレフンケン社製送信施設など、産業遺産としての価値の高いものも少なくありませんでしたが、これらは記念鉄塔の傍に開設される記念館において一般公開される予定となっています。


依佐美送信所跡2005 年 2 月当時の記念鉄塔。背後に送信所本館および送信室が見える。
(2005-02-19)

依佐美送信所跡依佐美送信所局舎。中央の大きな平屋状の建物が送信室。左手にある凸状の建物は本館。この写真では判り辛いが、周囲は有刺鉄線で囲まれ、米軍供用時代を偲ばせる。
(2005-03-19)

依佐美送信所跡送信所本館。旧逓信省の建築様式を踏襲した、ユニークなデザイン。
(2005-03-19)

依佐美送信所跡青空を背景に立つ記念鉄塔。三角柱状のラティス構造の鉄塔を三方の支線で支えた構造がよく分かる。鉄塔基部は鉛直方向の荷重を支えるのみであるので、意外なほど小さい。
(2005-03-19)

依佐美送信所跡鉄塔頂部にあった航空障害灯部分が切り取られ、記念鉄塔脇に展示されている。
(2005-03-19)

依佐美送信所跡2005 年 3 月当時、撤去された鉄塔の基部は、はっきりそれとわかる形で残っていた (写真は 8 号鉄塔のもの)。各鉄塔の跡には 2 本の樹木が植樹され、かつての鉄塔存在の証を後世に伝えることとなる。
(2005-03-19)

依佐美送信所跡局舎解体直前の依佐美送信所。この写真を撮った翌週から解体工事が始まり、1 ヵ月後には跡形も無く消えたという。
(2006-04-08)

依佐美送信所跡記念鉄塔の傍に、1 年前には無かった「依佐美送信所記念館」が建った。送信室の建物を模して造られたのが判る。
(2006-04-08)


参考文献

依佐美の鉄塔
刈谷市 , <http://www.city.kariya.lg.jp/history/musen.html>
依佐美送信所 対ヨーロッパ無線通信発祥の地
中部産業遺産研究会 , <http://www.tcp-ip.or.jp/~sugi-96/sanngyouisann/yosamisoushinnsho.htm>